愛と理想が仕事のボトルネックになっていたので、それぞれワークアウトで縛りあげることにしました。
脳筋的な発想かもしれませんが、何かを変えたい、その一心です。
楽しむってなんだ?
ぼくは重度の出不精なのかもしれない。
仕事に疲れが出るのを恐れて、休日は人混みを避け、そもそもの外出をも避けようとしている。
これは体力的には十分にリフレッシュできるのだろうが、精神的な側面ではむしろ逆効果じゃないのか?
家にいても仕事のことばかり考えてしまう、それが全てになってしまう。
確かに出不精には貯金はできるメリットはあるのだろうが、景色、光、音など身体に対する新しい刺激が入って来ない。
外を練り歩くことで得られる、マインドセットのようなポジティブな部分にも目を向けようと思う。
思考の拡がりを止めたい
彼女のせいでもなく、学生時代の弟や家族のせいでもなく、どうすれば周囲の誰もが傷つかず幸せでいられるかを常に常に考えるようになった。
この思考の拡がりは、寝てる間の脳の覚醒を引き起こすから恐ろしい。
寝起き一番に答えを出そうとしている。答えが出てしまう。
それが仕事や学問のことならまだマシなのかもしれないが、「人生」とか「生き方」とかそっちの類だからちょっと怖い。
こんなやつが友達だったら嫌だもん。だから本当にやめたい。
酒飲んでエッチして寝て、起きてピザ食べてエッチして寝て...。
いわゆる「脳死」でこんなことをしてみたい。
そのなかでさえ考えてしまうんだろうな。
思考の拡がりは止められないんだろうな。
てか近しい状態にあったができなかったし。
すんません、他者批判です。
なんで一定年代以上になるとあんなに態度がでかいんだろう。
そこらへんもじじいもばばあも。
戦後復興の経済成長による、ある種の必然かつ惰性で生まれた上昇気流に身を任せて生きてきただけで、よくもあんあ横暴な態度を取れるぁ。
とはいっても、年齢が生む身体上のハンディキャップなどには丁寧に寄り添ってあげたい。
最低限の愛は常に持ち合わせていたい。他者から浴びせられる理不尽に対しては冷酷であっても。
結構思いつきのまま書いている
今回はわりかし思いつきのまま、執筆できています。
思考を丁寧に辿らなきゃ、ズレなく言葉にしなきゃといった雑念があまりない。
思考することはぶっちゃけた話、全く生産性がない。
以前も似たような表現をした気もするが、底なしの渦に飲み込まれていくようである。
でも俺にはそれがやめられない。ふとしたことから思考が繰り広げられる。
愛とか理想とかいう抽象論で息継ぎをしながらも、他者に対する自分の役割を常に考えてしまう。
生産性のない思考というものに何かしら、積極的な意味づけをするとしたら何があるでしょうか。
人間としての深み?
内省を発信することで得られる承認欲求の充足感?
ことばの幅の拡がり?
本質の発見?
はたまた、何者かでない自身に見出す自己価値の向上?
意味づけしんどいんでやめます。また今度。
そういや、「人はなぜ何者かであろうとするのか?」っていう思考のメモを夏の真っ最中にどこかのフォルダに残したな。
人はなぜ何者かであろうとするのか
2025-06-07 10:55 のメモでした。
夏ではなかった。
土曜日だった。 中身はなかった。
厳密にはこの週に考えたことをこの時間に整理してたから、平日の電車の中とかで考えていたのでしょう。
フォルダ辿ったけど正確にはわからんかった。まあいい。
メモの内容は「何者かである必要はないのになぜ何者かであろうとするのか」でした。
SNSに跳梁跋扈する、「なんちゃってインフルエンサー」を思考から除外したくて記した感覚が残っている。
いいんだべ?プライベートを世界に発信するのは。
幸せを共有することで得られる、幸福度がさらに増強される感覚。
一定理解できるから。
肌出した露出の多い写真や類似した空間の写真を「過度に」載せたがる阿婆擦れインフルエンサーがすごく嫌いだ。
ぼくの主観です。
いつか俺も...
こうやって他者を「なんちゃってインフルエンサー」や「阿婆擦れインフルエンサー」などと批評しながらも、いつか俺もこのコンテンツを積極的に載せる時がくるのだろう。
そのとき俺は、だれかにとっての「なんちゃってインフルエンサー」になり得るのか。
阿婆擦れの男版を調べてみた。
「恥知らず」や「与太者」が近しい言葉としてあるらしい。
誰かにとっての「与太者インフルエンサー」になり得るのか。
あ待って。
インフルエンサーでさえなかったわ。