あの教育テレビのあと彼女とのんびり過ごしました。
3週目ということですが、変わっているようで変わっていない...
変わっていないようで変わっている...
そんな1週間です。
翌日ジムランニング
例の本に「普段の生活の中に何かを組み込むといい」という発想があった。
筋肉をつけたいが、身体のラインは極力崩したくないという相反する発想によって、ジムとランニングをセットで行うようにしている。
お気に入りの服が入らなくなるのを非常に恐れているのである。
一方で体力もつけたい。ランニングは強靭な心肺機能と精神力のためでもある。
人を人たらしめるものについて考えながら走った。答えはまだ出なかった。
走りながら様々なことに思いを巡らすのだが、いつかのラジオで日本語の美しさについても触れていたな。
なにせ、思考を整理しながら走るのは非常に難しい。
翌々日ジムランニング
曜日とタイトルのような”いかにも日記”といった章を作りたくない。
これは最低限の抵抗なのかもしれない。
俺の愛するじいちゃんの記憶が危ない、そんな気がしている。
家族は俺に心配させないように隠しているようだが、なんとなく察した。
記憶。
そんな祖父の記憶を少しでも取り戻したくて引き寄せたくて、祖父母の家に電話したが祖父は電話に出れないようだった。
庭で洗い物をしているということだった。
俺のじいちゃんは愛に溢れる人だった。
俺が目指すのは祖父母の愛の形である。あの関係性は絶妙すぎる。
最高の夫婦といった感じだ。
その日の夕方、ランニングの帰り道、スマホを車に轢かれてしまった。
綺麗な夕日が撮れたのに、バックアップができていなかった。
しかしあの光景は心には焼き付いている、っていう文脈はありきたりすぎて書く気にすらならないが、とにかくこの日は激動の1日だった記憶である。
「余裕を持ちなさいネ。」
祖母のあの優しい声が、代用タブレットから聞こえた。
涼華のための...
自分の人生、だからと言って何かを振り払っているわけではなく、家族のために経験を積む。
安心のために安泰を選ぶのではなくて、いつの日かの安心のために冒険を選びたい。
そのいつの日かは、俺が死んだあとでもいい。
母からの連絡は毎回すごく苦しくなる。
母が悪いのではなく、祖父母両親兄弟彼女その両親兄弟など様々な方向からのプレッシャー責任で押し潰されそうになるから苦しいのだ。
この間の父との電話は、大きな励みになった。
両親の関係性やその原因を作った自身に対し、思うことも多々あるけど、変えようができない。
変えられるのは今この瞬間の自分と未来の自分だけ。
こうやって少しづつ、あの本に記されていた観点を実践し修正していっているわけだ。
身体を動かしつづけ、頭を動かし続け、そんな重く苦しい感覚を麻痺させてえな。
責任感は適度に感じることができればそれでいい。
母よ父よ家族よ愛しています。
そんなセンチメンタルなことを書くのには早すぎるな、
いつまで継続できるかしら。
次に読む本...
次の読む本や気になる本は、なんとなくブックマークをつけているが、自己啓発本に偏ってしまっている。
嫌やねんな。そういう類の本は矢印が自分に向きすぎるから。
大きな満足感もあるが、実践を繰り返さなければその満足感や達成感も一過性のものに過ぎない。
「丁寧な暮らし」とかいう俺の至極嫌いな言葉の重ね合わせ。
「丁寧な」ってなんなんだよ。その言葉の持つ短絡さや曖昧さ。
言葉そのものが主観的なものに過ぎないのに、SNSに蔓延るヤツらは”したり顔”でそういう言葉を吐く吐く吐く。
ベクトルを外に向けながら、自分に触れる全ての対象に対する言葉を上手に可変させたい。
てことで、「すごくいい本」をよみたいな。
アイデンティティ
この期間、アイデンティティについて一瞬だけ頭を抱えた時間があった。
くまもとという素晴らしいまち、素晴らしい家族、素晴らしい友人で育まれた俺のアイデンティティが都会で壊されようとしている気がする。
そこでふと。
アイデンティティはそのときの自分の表層ではなく、そのときの自分に集積している文化的資源であるという発想が芽生えた。
しかしこれは確か、文化人類学の授業か、なにかの本、なにかの歌に記されていた単なる伝聞にしか過ぎない気がする。
逆説が連なるが、それでもこの「自己の内面に集積する文化的資源」という発想は俺の胸を張らせてくれる偉大な言葉になりそうだ。
熊本弁もたまには出していくばい。
くまモンの活き活きとした大きな背中見ていくばい。
バッテリー切れ
スマホを変えたことによってその使用感は万全なものの、この日は自身の身体そのものが動かなかった。
なんとなく昼ごはんを食べたが、その後もすぐにベッドに横になった。
1週間頑張ったといえばそれまでだが、まだまだ動き続けている人がいる。
頑張っている人がいる。頑張れない人もいる。
「今日」という素晴らしいこの日をただ消化しただけに終わったことに対する劣等感、罪悪感をひしひしと感じながら、パソコンと向き合っています。
現在時刻18:16。
明日のための0日目だと思って。
神様が与えてくれた、束の間の休息だと思ってこのあと軽めのジムに行こうと思う。
ランニングはわからん。外はもう暗い。
動けない時は本を読むとかそっちにシフトせなあかんな。
今日はその発想すらなかった。
よし着替えたぞ。また来たる翌週に向けて。
いってきます。